これがなかなか撮影する機会などないのだ。
【親の写真を撮るという事について】その目的もありますよね
最後に親の写真を撮ったのなど、いつの事だか思い出すことができない。
もしかしたら5年くらい前、正月に子供達と一緒に実家に行った時、何かのきっかけで撮った気もするが、それがデジタルカメラだったかスマホだったかすら覚えていない。
そもそもなぜ、親の写真を撮影するのか。
まあ、写真を撮影するのに理由などいるのかと言いたいところであるが、言ってしまえば、遺影の為である。
そのいつかは必ず来る。
私だってそうだ。
頭が痛かったり、おなかが痛かったりすると、なんだかすごく気弱な気持ちになる。
以前、下記の記事にて、高校生の時に命の危機を感じた時、恐怖よりもなんだか達観していたと書いたが、そのときよりも、今の方が寿命というものに執着している気がする。
それは今ではない。という気持ちが強いのだ。
私に何かあるとしても、意地でも生きてやるという気持ちである。
親は元気だし、子供は小さい。
なんとか、まだ、私の番が来るのは勘弁してください、という言葉がしっくりくる
もっとも、現在のところ、何が痛かろうと幸いすべて杞憂に終わっている訳であるが。
【葬式について】あまり出席した覚えもなく、当然主催の経験もなく…
で、親の写真の事である。
いざ遺影に使おうというとき、よい写真がないのでは困ってしまう。
親だってせめて最後の際には、出来るだけそれっぽい良い写真を飾ってもらいたいのではないだろうか。
私は幸いなことに周囲の方々は割と元気な事であり、 葬式に参加する機会が今までとんとなかった。
いや、正確には祖父は生まれる前、祖母は幼少の頃、両家系とも亡くなっており、その様な機会がなかったという事か。
そうすると、決して長命の家系ではないと言えるかもしれない。
親の葬式の時の写真を今から気にするなど、なんて罰当たりな親不孝者だなどと考えられる方もいるかもしれない。
でも、親自身、自分たちの墓を既に買っているという事もあり、写真を準備するという位は許されるべきことではないだろうか。
【写真撮影のパターン】どの様なシチュエーションで撮影すれば自然か
実際に撮影するときには、そのきっかけとして何パターンかを考えている。
例えば、どこかに旅行に連れていく。
子供を連れて実家に帰ったときに一緒にとる。
食事に行った際に撮る。
等々
でも、ちょっと思っているのは、親に直接聞くというのもありなのではと思っている。
何なら写真屋さんで写真を撮ってもよい。
ああ、そうか。
ここで、この様な事が世間であまり問題にならない理由がふと、頭をよぎった。
世間では、喜寿とか米寿とか、親の年齢が切りがよい所になるとお祝いをしてプレゼントをして写真を撮るのだ。
そのことが全く頭になかった。
【古来からの日本文化】非常に疎いのでどうすればよいのやら
私にはそういう日本古来からの慣習を軽視しがちな癖がある。
子供たちが赤ん坊であるころ、何やら餅を背負わせたり、いくつか文具やら財布やら並べて取りに行かせる事を義母と妻がやっていた。
その時は何やらやっているなとしか、考えが及ばなかった。
一方で、結婚記念日とか、何かのイベントとかについては、結構こだわる。
一体どの様な基準であるのか。
我ながら不思議である。
その様な事について、あまり顧みることなく生きてきた。
今更、考え方を変えるのも難しいであろう。
【まとめ】
でも、全ての責任を転嫁するつもりは全くないが、そもそもこの様な性格になった責任の一端位は私の親にもあるのだろうし、そこは譲ってもらう他はないだろう。
せめて最後の時くらい、親の満足する写真で送ってやりたいだけなのだ。
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