完璧な状態を目指そうと思うと、自分も周りも疲れてしまう。
目指すところは80点くらいが丁度良い。
目指した結果、60点になっても状況によっては許容していこうという事だ。
【パレートの法則】仕事上であてはめられることが多い気がしますが
パレートの法則という物がある。
色々なケースがあるようだが、物事を100%完璧にするのに100時間を必要とするものとする。
しかし、この場合、50時間経過したから物事の出来が50%になる、80時間なら80%になるという訳ではない。
ちょっと大げさだが、最初の20時間だけでも進みが良いので 80%となる。
残りの80~100%に持って行く為に、多くの時間、この場合80時間が消費されるのだ。
これには思いつく事が多くある。
特に仕事に対する考え方はかなり当てはまりやすい。
大体、仕事を100%にするという為には時間が不足する。
物事に対する予算や時間はいくらでもある訳ではないのだ。
この全体の中から必要な事、そうでもないという物を見極めて、うまくやる必要がある。
一方で物事には99%以上何々でなければならないという事もある。
その様な絶対の部分は保持する事として、その他の部分を省略する事で80%を目指すのだ。
その場合、バーターにより他の部分がかなり犠牲になる事となる。
なかなか難しい。
【個人にあてはめた場合】完璧な人間などなりえないものでして
自分の生活態度や考え方についてはどうだろう。
私の場合、最近は特にこうでなければいかん的な物も多くなってきている気がする。
年を取るにつれて柔軟性が欠けてきているというか。
いや、改善に対するアイデアやその実行についてはむしろ年齢を重ねてた今の方が良くなっている気はする。
20代、30代の頃は何かに流されて必死になって生きていたようなもんだ。
今だって必死だが、なんだか多少は色々な物事に対する達観の様な物を覚えた気がする。
これは喜ぶべきなのか、悲しむべきなのか。
一種の諦め、諦観である。
その様な状況であるから、100点を目指さないという事に対する抵抗感的なものは今の方が受けれやすいのではないだろうか。
これが、20代の時であれば、何事にも常に100点を目指し、時間切れで80点となる。
結果、疲れ切ってしまうのだろう。
これをそもそも80点を目指すようにする。
これは、性格的な物、家族、友人、生活面に対しても同様だ。
100点であろうとするから、人に何かを言われたときに気になってしまうのだろう。
これが自分が60点や70点であるとすれば、言われて当然である。
欠点はあってしかるべきだから、まあ、そりゃそうだよな、と流せるようになるかもしれん。
私はその様な鷹揚な人間でありたいのだ。
もっとも、この鷹揚な人間になるという状況を100点とすれば、心が動いてしまうのは点数が低いという事だから、それすらもある程度は許容しなければいかん。
バランスを取るのは大変である。
【当然人に対しても求めない】自分の事は置いておき、それを求めてしまう事も多い
同様な事は無論、自分の周辺の人に対してもあてはめられるべきである。
人は100点ではありえないという事を常に理解しておく必要がある。
頭では理解していても、感情では理解していないものだから、何かあればすぐに反応してしまう。
これは、私の問題というかあいての問題というか、ともかく自分は100点になりえないにもかかわらず、周辺の状況や人に100点を求めるというのはフェアではない。
とかく、物事は100点を求められることが多い。
例えば、どこか食事に行けば、店員が挨拶をしない、ごみが落ちている、看板が割れている。
この様な事があれば大変に不快感を感じる事だろう。
まあ、限度という物はあるだろうが、一方で料理は極上であればどうだろう。
総合的には、80点といえない事もない。
この様な事については、出来るだけ認めていきたいのだ。
同じような事は人に対しても当てはまる。
時々、嫌な態度を取ってくる人がいたとする。
でも、通常話をすれば、まあそれほど悪い人ではない。むしろ楽しい人で話せばわかる方であるとする。
大変申し訳ないが試しに人格に点数をつけるとすれば、その様な場合、総合的には70点といったところであろうか。
その様な方を許容していけるようになりたいのだ。
【まとめ】
100点を目指さない、80点を目指すというのはその様に周辺を許容する事につながる。
それにより自分も楽になる。
ところで偉そうな事を徒然と述べてきたわけだが、実際に自分が出来ているかといえばとんでもない。
自分についても他人についても小さなことが大変に気になるし、結果くよくよと思い悩むことも多い。
実際にできているという者であれば、もっとうまく世を渡っている事だろう。
だから目標としてこの項目を作ったのだ。
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