オーストラリアには20代の頃1年近く滞在した。
大変貧しかった覚えがある。
【社会人での放浪の旅】もう20年以上前の話ですが、よくも決断したものだ
あまり人には言わないのだが、大学卒業後就職した会社を3年務めた後、退職し出発した。
安い航空券航空券なので、無論直行便などではない。
目的地のオーストラリアに行く前にマレーシアのクアラルンプール空港でストップオーバーして東南アジアを旅した。
今考えればオーストラリア滞在も今の私の構成要素の一つであろうが、本当に大変だった。
大変だけならまだいい。
なんだか、目的を見失いないそうな事が多すぎて今でも恐怖に思う事がある。
海外に慣れすぎてしまっても今とは違う人生になっていただろうし、また、その逆であってもしかりである。
今頃全く違う人生を歩んでいる事だろう。
もし、私の子供が私のように海外に長期の旅に出たいと言って来たら私は泣いて反対をしそうだ。
勝手なものだとは思うが、再現性が低すぎるのである。
【物事の再現性について】同じことをやれば結果も同じとは限りません
現状私はまあ、なんとか普通に生活できているが、もし再度、同じことをやっていたら今と同じようになっていただろうか。
多分、難しいだろう。
たまたまの今なのである。
それも五分五分ならいい。
多分十中八九、今よりも悪い方に転がっていく気がする。
それが判っているとさすがに賛成はしかねるのである。
一方、留学するというなら賛成だ。
きちんと学校に行って学習をするというのなら積極的に応援するだろう。
【英語の勉強について】何となくでは点数は上がらないものです
当時私は貧乏で、一人で英語の勉強をたくさんしていた。
挙句、宿のおばさんからは電気代がもったいないから出ていけと追い出されてしまった。
でもそのおかげもあって、出発前は地名位しか話せなかったろうと思う実力が、帰る頃にはTOEIC600点位になっていただろうか。
TOEICの点数自体はその頃から劇的に変化したとは言い難い。
もう20年も経つのだからもっと大幅に向上してもよさそうなものだが。
結局、人間、本気にならなければ変わらないのだろう。
【オーストラリア滞在の思い出】ユーハムは元気にしているだろうか
そんな、オーストラリアであるが無論1年も滞在していれば良い事もある。
でも良いことはあまり具体的には覚えてはいないものだ。
辛かった思い出はよく思い出すことが出来るのだけど。
そういえばインドネシアから来た確かユーハムという者がいた。
しばらく同じ家で滞在していた。
愛称なのかもしれないが私が名を覚えている数少ないうちの一人だ。
ほとんど英語が出来ない私に親切にしてくれた覚えがある。
というかおちょくられていたのかもしれないが。
良い思い出だった事の一つである。
もう一人もっと親切だったものもいたのだが、そちらの名は思い出せない。
ひどいものである。
【滞在中の貧乏話】貧しくて毎晩 猫の餌みたいな夕飯を食べてました
何か所か滞在先を移動しながら生活していたのだが、上記とは違うそのうちの一か所の貧乏話。
夕食はサンドイッチ用のシーチキン(80円位)を半分だけ食べ、残りは次の日にマヨネーズをかけて食べていた。
ご飯は160円で1週間自由に食べてよかったが、なくなるまではそのまま保温のしっぱなしだから黄色くなりかけていて。
寝る部屋は個室だが、ガレージみたいなところに、カラオケボックスみたいにべニアで仕切られていた。
無論、天井はない。
トイレの個室といえばわかりやすいだろうか。
まあ、そこすら先に言ったように勉強のし過ぎという理由で追い出されてしまったわけであるが。
【まとめ】
その様な事まで割といい思い出として変換する、人間の耐久性には感心させられる。
そこには金色に輝く大きなゴキブリがいて、私を威嚇してきたなあ、などとこれすら良い思い出になってしまう。
不思議なものである。
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