【人を変えようとしない】自分が変わる方がよいと養老孟子先生も言っていますが 

野原と木 やらない事

人を変えようと思えば色々な軋轢となる。 

よかれと思って試みてきたが、これは誰にとってもよい事ではないのかもしれない。 

【軋轢を減らすために】人を変えようと思うのはおこがましい 

人を変えようと思えば、その相手に対しどうしても指摘をする必要が出てくる。 

変わって欲しいと思っているのだから当然だ。 

何も言わずに変わってもらう事など、期待できない。 

でも、言われた方の気持ちとしてはどうだろう。 

たとえそれが正論であったとしても素直に従う気持ちになどなるだろうか。 

人は正論にこそ反発を感じるものだ。 

私もそうである。状況を考慮しないでいう正論などは大嫌いだ。 

通常の場合、相手は大人。 

子供であれば、明らかに優位性を持っている訳なので、それは変えようと思うよりは教育という事だろう。 

その場合には悩みはしない。 

しかし、相手が大人であれば、通常、相手に変わってもらおうなどとはおこがましい事だろう。 

嫌なら離れるなりすればよいのだ。 

そもそも言われた方も素直に変わったりはしまい。 

通常の場合には、それは改善の行為というよりは、感情の押し付けとなってしまう。 

これでは誰も得をしないだろう。 

【「叱る」と「怒る」の違い】子供を導くのって難しいですが 

ところで、先ほど、子供についてはちょっと違うという話が出てきた。 

「叱る」と「怒る」の違いはご存じだろうか。 

子供が何か悪い事をした場合、当然、それについて是正を促さなければならない。 

それが親としての責任である。 

その場合のやり方の事だ。 

私の理解としては、「叱る」は相手の事を思って、教育の為にあえて言葉を強くし、反省を促す事、「怒る」は相手の行動により自分がイライラしたからその感情をぶつける事。 

傍で見ていると同じように見えるかもしれないが、これらには大きな違いがある。 

愛情が関係しているかどうかだ。 

あまりに子供が予想外の事をして、自分がびっくりしたときなどには、一瞬「怒る」というモードが発生してしまう事があるが、この時には逆に申し訳ないと反省する事になる。 

自分はまだまだ人生としての修行が不足していると。 

まさに、以前に挙げた下記記事の事である。 

そうならないよう、「叱る」という事を心がけていきたい。 

【 大人を叱るという事 】ちょっと成り立たないのではないでしょうか 

一方、大人に対しては別である。 

別段、大人に対して「叱る」などやっていたら、会社においてはパワハラと言われるだろうし、家庭においては家庭不和となる。 

それは愛情があろうとなかろうと関係なかろう。 

この叱るという事は、例えば、教師と生徒、親と子などの様な完全な上下関係、信頼関係があるから成立しているのであって、時代が変った現代においてこれを社会でやるにはかなり問題があるだろう。 

また、その場合、夫婦間というのも問題がある。 

叱るという行為が一方の圧倒的な立場の優位性によって成り立つ場合、夫婦間でこれが成り立つというのは好ましい事ではないだろう。 

発生し得るのは、「怒る」という行為のみである。 

これだったら夫婦間で成り立ちうる。 

私も例にもれず、やはり夫婦間での諍いという物は当然にして発生し、もっぱらの原因は、この項目”人を変えようとしない”に関する内容になる訳であるが、終わってみれば大概自己嫌悪に陥る訳である。 

何度も同じことを繰り返して、更には成長しないものだなと。 

【夫婦間の諍いに関する比喩】タコの足の話 

ここで、比喩を二つほど挙げてみたい。 

夫婦間で諍いがあって言い争いにまで発展、険悪なムードが続いているとする。

その状態を私は下記の様に考えている。

「夫婦間の諍いとは、タコが自分の足を食べるようなものだ」 

これは、タコが飢餓状態に陥ったとき、自分の足を食べてしまうと言われている事から来た例えだ。

おなかが減ったという感情を満たす助けにはなるだろう。

しかし結局、総合的には体の発達に何の得にもならず、全体的なエネルギー総量は変わらない。 

そればかりか自分を傷つけてしまう事になり、生存確率は低下してしまう。 

なんだか、ちょっと空しい気になる。 

あまり気分の良い話ではないのでタコが本当にそうするのかなど調べてはいないけれど。

もし、ただのデマに基づくならタコの名誉にかかわる話だ。タコに申し訳ない。

【夫婦間の諍いに関する比喩2】ぶつかる石の話 

一方、下記は昔何かのドラマで見た言葉であり、ちょっと原文とは違う可能性もある。 

「夫婦とは二つの石みたいなものだ。最初はとがっていてぶつかり合う事が多くても、段々削れて両方とも丸くなって、最後にはいい感じに収まる」 

これもいい言葉だったので覚えている。 

ただ、願わくばぶつかりすぎて片方が割れてしまったり、削られすぎてなくなってしまわない様に気を付けなければならないけれども。 

【まとめ】

人を変えようとすることは、多くの諍いの原因になる。 

だから、私はこれを改めたいと思っている。 

この事は私が尊敬する養老孟司 先生も言っていた。 

ただ、これが簡単にできるようなら苦労はない。

こちとらこんなことが簡単に出来る程、人間出来てはいないのだ。

実際に、達成できるのはいつになるのか分かったものではない。 

もしかしたら一生無理かもしれないけど、目標にしないよりははるかに良いだろう。 

やらない善よりやる偽善である。 

(いや、これは意味が正しいかはわからんがなんとなく) 

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