【人の悪口を言わない】悪口は媚薬である。使いすぎると体に悪い

ごちゃごちゃしたカウンターキッチン やらない事

悪口を言うのにも精神力を使うのだ。 

若い時にはそれもよいかもしれないが、年齢を重ねてきた場合には出来るだけ避けるべきだ。 

でないと、自分に返ってきてしまう。 

【悪口、陰口の効用】通常はその対象者がいない時に行いますよね。 

悪口や陰口は行っている時には、なんだか気分が良い。 

更に良い事には、悪口や陰口をたたくのはその相手のいない時に行われる。 

当然、悪口の対象者に知られてはならない。 

陰で言うから陰口なのだ。 

本人の目の前でやるなら、非難とか文句とか別の言い方になるし内容、言い方も変わる。 

これは、秘密を共有する事はその相手との絆を深めるのに大変手っ取り早い手段である。 

悪徳政治家が料亭で誰かに都合がよい法案の要望を受ける。 

悪代官が商人から千両箱を受け取る。 

我々の様な一般庶民はその様に共有する様な大それたことはないから、せめて陰口を共有する事で、お互いの絆を深めているのではと思う。 

よって、それを行っている時には気分が良いのである。 

ああ、この人と分かり合えたとか。 

【悪口、陰口の副作用】おっさんともなるとコミュニケーションの機会に問題が 

しかし、この共感には副作用がある。 

相手と悪口をいう事で、自分に対してもそれが起こりえるのではという疑念が湧いてきてしまうのだ。 

よく言う、あるグループの中で常にいない人の悪口が始まってしまう問題である。 

誰かの悪口を言っていた集団が、Aさんがいなくなった瞬間に、そういえばと、今度はAさんの噂話、ひいては悪口が始まってしまうという事である。 

ただ、コミュニケーションが発達している場合には問題はない。 

これはコミュニケーションなのだから、Aさんはまた、その集団に戻ってくれば良いのだ。 

今度はそこにいない別の人の陰口で盛り上がれる事だろう。 

あまりにどぎつい内容で、行き過ぎてしまう場合を除き、その面会の機会が多い場合には、それ程問題ない。 

でも、おっさんの様に人と会う機会が減少している場合にはどうだろう。 

陰口を言うその瞬間には共有者との絆が深められたと思っても、どうも違和感が残る。 

何だか人の悪口を言うたびに少しづつ心が疲弊しているような気がする。 

私はこんなに矮小な人間であったかとか考えてしまうかもしれない。 

更には久しぶりに会う人との話の内容が、そこにいない人の悪口では、ちょっともったいない事であろう。 

そして、自分のいない時には自分について言われているという事も覚悟しなければならない。 

その疑念を払しょくするには再度会合を持つのが良いだろうが、そのコミュニケーションの機会は減っていく。 

よって、秘密の共有というよい事に対し、会合の頻度が減る事で、疑念の修正が出来ないという悪い事の比重が増えて行っているのだ。 

人の悪口は言わない方が、結果的には心の健康によさそうである。 

【対応の具体的方法】悪口が始まったらさっと席を立ってしまおう 

ま、もっとも私の場合、過去の記事で何度か話題にしている通り、人の悪口を言いすぎを心配するほどは、コミュニケーションの機会は持たない。 

ただ、そう多い機会でもないが、聖人君主ではあるまいし、人と会えば悪口や陰口のネタも出てくる。 

また、それに合わせるすべもいい加減理解している。 

2人で話す機会であれば、何の問題もない。単純に話題を変えてしまえばよい。 

でも、多人数でいる場合には、なかなか難しい。 

その様な場合には、それとなく席を立ってしまおう。 

トイレでも、電話でも何でもよい。無論、上記の理論でいえば私の悪口が始まるかもしれない。 

でも、それに参加していなければ、後にその疑念を抱える事も段々少なくなっていく事だろう。 

可能な限りは、話をあわせて一緒に悪口で盛り上がるなんてことはしない方が良い。 

なんせ人の悪口などくだらん話だ。 

そのために自分の心が段々摩耗していくだなんてもったいない。 

【まとめ】 

だから、最初に戻って「悪口は媚薬である。使いすぎると体に悪い」となる訳だ。 

多少の効能はあるが、段々、それがないと耐えられない体になってしまう。 

そして、心が摩耗する。 

だからお勧めできないし、私もこの媚薬を使わないようにしたいと思っている。 

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