【禅寺で座禅を組む】心が洗われた様な気分にならないかと思いまして

お寺と庭園 やりたい事

昔、JR東海のCMで流れていた様な禅寺でちょっとした座禅を組んでみたいのだ。 

【どこに行くか】京都か鎌倉ですかね、オーソドックスな事ですが 

どうせなら京都が良いと思うが、どこの寺だったかなどとは明確に覚えていないし、この際それっぽければどこでもよいと思っている。 

でもなんだかんだ言っても観光客向けのサービスとして行っているところが良いだろう。 

奇をてらって穴場の禅寺を等と言っても、却って楽しめないのではないだろうか。

本格的な修行などしたいとは思わないし、私の様な不埒者が本気で修行を行っている修行僧の方々を煩わせるのは申し訳ない。 

その点、京都などは観光客向けのサービスとして座禅などは発達しているだろう。 

あと鎌倉にもその様な場所はありそうだ。 

旅行に行くというよりは、座禅を目的にして、いつかこの辺りを訪れたいと思っている。 

【座禅の棒について】痛いならダウンタウンのケツバットに変更してもらいたい 

ではなぜ座禅など組みに行きたいのか。 

実際、私は煩悩に懊悩するタイプではないのではと思っている。 

無論、人並みに悩むことは多いし、人から何かを言われたら割合くよくよといつまでも引きずってしまうのだが、この辺は煩悩とは少し違うのではと思う。 

まあ、庭園でも眺めながらボーっとするのは気分がよさそうだ。 

しかしボーっとするのは座禅をするのとは違うのだろう。 

そんなことでは住職の活が入ってしまう。 

あの棒で背中を打たれるという事だ。 

棒の名前は警策(きょうさく又はけいさく)と言う。 

宗派によって呼び方が違うらしい。 

小難しい事である。 

あの棒は痛いのだろうか。 

痛いのであれば、ちょっと嫌だ。 

私は禅寺で自分を見つめて煩悩を退治したいなどと本格的な事を考えている訳ではない。 

ただ、ミーハーな考えのもとにちょっと楽しそうという事でやってみたいのだ。 

私にはダウンタウンの年末の番組で使っているケツバットにしてもらえないだろうか。 

派手な音がして痛いふりしているが、どうせ痛くないのだろうし、あれくらいなら耐えられそうだ。 

【瞑想について】腹式呼吸って今どっちだっけと混乱しませんか 

以前、朝のルーティンとして瞑想を行っている事について書いている。 

今でもきちんとこの記事で書いた内容は実行しており、2番目にある瞑想も続けている。 

書いたのは冬だったから、今はエアコンだの携帯カイロだのはやっていないが、まあ季節に応じてという事で。 

瞑想はなかなか悪くない。 

朝の時間は貴重だから瞑想には100秒しか充てていない訳だが、これだけあれば割と瞑想したという気持ちになれる。 

瞑想時には私の場合、呼吸する事よりも腹を意識する。 

よく瞑想時には腹式呼吸でと言われるのだが、呼吸を意識しながら腹をへこませたり、膨らませたりするのは混乱する。 

何も意識しなければ、息を吐いた時には腹は膨らんでしまう事の方が多い気がする。 

通常、息をする際には胸が膨らむわけで、胸が膨らむ際には腹がへこむという論理なのではないか。 

だから、私は意図しないと腹式呼吸の実施は難しい。 

ただ、最近、呼吸でなく、腹の方を先に意識すれば腹式呼吸がうまく行く事に気が付いた。 

腹に意識を集中して、しっかり力を入れて、大きくへこませたり膨らませたりするのだ。 

そうすると、呼吸の方が後からついてくる。 

もし、私の様に腹式呼吸にお悩みの方があれば試してみるとよい。 

【まとめ】 

座禅というのはGoogleでも採用しているらしい。 

まあ、あちらが採用しているのは私が何となく考えているファッション座禅などではなく、自分を見つめなおすという高次元の話、マインドフルネスといわれるものらしい。 

私の方はといえば、庭園を眺めながら座禅でもすればさぞかし気分が良かろうとの事から来ているものであるのであんまり深くは考えていない。 

もしかしたら、禅寺の庭園を見ながら茶でも飲むという事でも、私が思う同じ効果が見込めるのかもしれないが、最初に思ったのがこの項目だ。 

やはり、禅寺で座禅をする、を項目として挙げておこう。 

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